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はぜの木の並木道

もうすぐ、あの季節がやってくる。

ずいぶん昔のことだ。久留米大学のシンポジュームには飽きて、せっかく6時間以上もかけてやってきたのだから、観光をしようと思いたった。

場所はいまはわからないけれど不思議な出来事で交流することになった西日本水車協会の香月さんからの年賀状をみればわかることだ。

そもそも観光案内に載ってた有名なはぜの木の並木道だから。

なぜだか、母を訪ねて三千里のマルコ少年にでもなったかのようなただ広く草原のような稲刈りがすんだあとのなにもないところにバスから降りてしまったのだ。




すでに陽はかたむきかけて、やさしいオレンジの光になっていた。はぜの木の並木道は延々とまっすぐ続いている。どうせなら並木道の最後まで行ってみようと歩きはじめた。

大きな木に細長い葉がたくさんついていて、完全な紅葉になりきらず、緑の葉と真っ赤な葉が混じっている。このすばらしいコントラストがぼくの心をとらえた。

あてもなく、どんどん前に歩いてゆく、果てしなくまっすぐに続く道。初秋の日差しがやさしく笑っているようなのどかな世界。それは特別な時間を与えてもらっているような幸せがにじみ出る感じだった。見知らぬ土地で受け止めてもらっている。ひとりの旅人の至福の時。

やがて、並木道が山の先まで続いているような、そのふもとの左側に水車小屋があった。そこの主人に訊ねるとここまでだという。わたしは昨日、ワークショップであちこち訪ねた時に水車小屋の説明をしていたひとにあっていた。よく見聞きしてみると、目の前にいる香月さんそのひとでないか!この不思議な出会いは、たのしい談笑となり、最初は立ち話していたものの、徐々に奥に連れてゆかれた。最初は軒先で、次は土間で、そして居間へ。夕食までごちそうになり、はじめての九州らしい食事を味わった。

なにしろ、水車小屋で米をつき、五右衛門風呂で出た灰を使って食器も洗うと言う、自分には画期的な生活をしているひとだった。泊ってゆかないかとすすめられたが、すでに宿も取ってあったことで、結局は宿まで送ってもらうことになってしまったが、再び訪れると約束しながらも、まだ果たしていない。いつかはきっとと思っている。

by knazy | 2004-09-23 02:09  

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