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二足のわらじとあいまいさと誰でもない時分

居場所と仮想空間

量子テレポーテーションの実験が成功したとニュースにあった。現在のところ、光は粒子であり、波動であるという二足のわらじを履いた存在だ。二足のわらじとはそもそも同じ人が両立しないような二種の業を兼ねることを言っているが、江戸時代は博打打ちが十手持ちということもあったという。

自分とは何かと考えれば、葛藤が生じて苦しくなるし、さまざなま価値観が内在して、戦うようになる。天使と悪魔がささやくときとはこうしたときのものだが、どちらかが勝ってどちらかが負けるとなると分裂しそうになる苦しさからは抜けることもできると思うが、それは一時的なものだと思う。

なんちゃって!という言葉の発露は、緊張感を高めて来た空気の中で、瞬時に照れポーションを行うことだろうと思っている。しかし、なんちゃってはいままでのコトをすべて無に帰する呪の言葉でもあり、使い方を間違えれば、意味のないものどころか、あなたの存在すら無ににしてしまう。

「時分の花」というものがある。これは舞台にかける一瞬のきらめきを花として散らすわけだから、なんちゃってではすまないのである。舞台では死することを悟り、生き抜くほかはないのだ。これは自分の実感としての言葉だ。10/31にはウクレレの舞台もあり、出演する人たちはそれぞれの温度差を持っているので、さまざまな想いで舞台に上がるのだと思う。やはり、いままでの舞台と同じように感動したいと思う。そのためには、残された命を燃やすように日々、ウクレレと格闘の日々になるかと思っている。

こんな時分であっても、誰からも許され愛される存在として、好き勝手できるのは、18のときから二足のわらじを履き続けることによって培って来たものではないかと思う。高校生の身分で家出して、卒業式までの短期間であったけれど星の家に居候したり、プログラマーとして働きながら大学に通い、テニス部ではマラソンをし、美術部では絵も描かずに酒を酌み交わし、隣の茶道部でお茶を飲み語らい、器楽アンサンブル部ではパーティを取り仕切る。卒業に7年かかるわけだ。同時にタップダンスをはじめていたし。それはいつの間にかミュージカルの舞台にも上がることに。歌って踊れるサラリーマンとして。もう、こんな無茶はできないなと思う。

ずっと、あいまいさを自分に与えていた。それはあえてかも知れない。なにしろ、自分自身が自分とは何かと分からない。そのときどきを時分として生きていたとしか言い様がない。ただ、誰かになろうとしたこともなく誰でもない自分だとは思った。

そして、時分に嘘をつかず、本気で生きることだと。自分がかわいいとどこかでごまかす時分がいたりするけれど、正面からぶつかって散っても良いかなと思ったりもした。

by knazy | 2004-09-23 12:20 | ココロのカタチ  

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